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人は、
否、生きとし生けるもの皆は、
消えてゆく姿など関知しない。
若し「消えてゆく姿」というものがあるのなら
さしづめ「消えてゆかない姿」を顕しに来たのが我々だ。
そんなものはS君の言うように背面に任せて
「消えてゆかない姿」にいそしめ。
そんなものを消しきってだからなんだ?
自由になってそれでなんだ?
消えてゆかない姿とは「天命」の事であり自分と言う生命の「名」そのものである。
創造主の胸に宿ってそれが具現するべく地に降り立った「種子」である。
天から与えられたものと言うようなあいまいなものでもなく、
舵取りをゆだねる様な任せ切りなのでもない。
自分と天とのハッキリした一心同体の責任判断で瞬刻瞬刻振り行われてゆくものなのだ。
任せきりなのは「いつ咲く?」「まだか?」「どんな花が咲くつもりだ?」と言う結果や報酬の事なのだ。
舵取りは神として断乎として行う。
しかし私心ははなから死にきっていて無い。
考えてもみよ。
ゆりを単独に咲くことを任じて地にまかれ、あるいは自ら着地したゆりが、
生け花や栽培学の権威となって何する?
オーソリティーになった博学なユリを自然の環は送り出したか?望んだか?
またそんなユリが貴いのか?
入門者の多い習い事で権威になって何が貴い?
それが趣味ならそれも大いに結構。
「絵描き」という職業名を外した「ただの人」という自分があるはずだと
私を指摘した人があったが、
「ただのひと」も「ただの生命」も、この世に一個たりとてない。
全ての生あるものは皆「独自の天命」を任じて降り立った「独自の種子」だ。
よって、道は必ず独自の(花を咲く)、単独の道であり、
独自だけが普遍に穿ち入るのだ。
見事に自身を咲ききるユリは
見事に走りきった馬と話が合うものなのだ。
真理の味はその様に語り合われる事があると言うだけのもので、
ユリと言う天命を咲かぬ先や
野生の馬と言う天命を駆け切らぬ先に
「ああでもあるまい、こうであるのが正論であろう」と
語り合われる種類のものではないのだ。
その馬鹿馬鹿しさを知ったら早々に「独自」の探求の旅を走り抜け。
その中に跳躍があって
自らと天と分かちがたい秩序美の世界に飛び込む。
独自と普遍の同時に息づく世界がある。
体験ではない。
それは世界だ。
巷に、高い精神性を発揮した人の文面をさして
「行間を観よ」といったのは、
その単独にして完全な花を見てとれるかいなかのことを言っているのだ。
先に触れた墨気の事や美の事は
まさにそうしたものの事なのだ。
この世に一つの花の美やかほりのともなわぬ権威など捨て置いて走れ。
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