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信じると言う事は
母が母である事について、一々メーターを持ち出して測りつづけなくても分かり切ってるという様な事だ。
それは前提で忘れて生きてるけれども忘れてる訳でもない。
見えない愛の糸の繋がりが、自分を思い起こすように母を何時でも思い起こさせるからだ。
人と言うのは、善くも悪しくも種蒔く農夫だ。
日々、声に出す、出さぬ、関係なくこ・と・ばの種を蒔く一生なのだ。
種蒔く自分や種を信頼するならば、その花が何時どんなカタチ、どんな色に咲くかを注文付けず花の生命、種の命に信頼し、ただ陽と水(陰陽欠けぬ愛=言葉や眼差し)をやり続ける
それだけでよい。
多くの人が、種まきについて犯しがちなミスは、
どこかで日切をして掘り返したりそこまでで合否採点してしまう事だ。
彼は、「よくしたい」のではなく「スッキリしたい」か
持論の証明される満足の方を選ぶのではないだろうか?
種を蒔いたら
永劫に信頼して収穫の取り分など忘れて更に日々の良き種を蒔く事にいそしむのが人生だと思う。
思い掛けない時に、最も適切な時に花や実が手に落ちてくる。
その花のえもいわれぬ神秘の造形が
果たして自分が突きつけたジャッジの図面通りだろうかと
良く見ると....
人知を超えて完全の美、人間の思う左右対称な秩序ならぬ計算を越えた秩序美を湛えている。
信か、不信か、という様な時
信じてただ益々善き種まきに精出す事にしよう。
まあ、商売ではそうも思い難い事もあろうが、
私はその様に大生命を信じて行く。
信じて花の咲く咲かぬについては天に委ねた者も、
自説を証明する事を望んだ者も、
夫々の望んだ通りの満足や成果を手にするだけだ。
多くの事象は地上目線から その時々の説明はつかないものだが
ただひとつ確かなものは、その足跡の上に
最終的に未来の花が咲く場合と
勝ち負け、証明の虚しいシルシをしばしとどめて風化して行く場合
その二種類だ。
時や結果の事は神の手に返して粛々と歩く事だ。
採点や証明なら足跡がやがてする。
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